那智の滝事件

私は那智の登攀事件が怖かった。軽犯罪法を犯してまで滝を登る彼らが怖かったのではない。事件後、皆がバッシングをしたまるで極悪非道なことをしたかのように・・・クライマーまでも、彼らを擁護したのは、私の周りでは私と私の先輩と友達のアルパインクライマーだけだったように思う。ツイッターやFB、ブログなどあらゆるところでバッシングしたそんな世間が怖かった。・・・

正義面して魔女狩りが好きな人って居ますよ。 その魔女狩りは集団リンチと何ら変わりない。

◎那智の滝を登った心情が解かりやすく書かれてありますね。クライマーならわかると思う。クライミングとは何かが問われているような・・・

〇僕は抗議を含めて、あの近くを旅をしても那智大社に行く事を避けています。子供の頃に訪れただけで、その後一回も行っていない。
でも、近年、ロングトレイルにも興味が湧き、熊野古道を歩いてみたい気持ちもあります。しかし、那智大社に行くのは止めて、高野山から本宮までにしようと今の所思っています。その批判した人たちの一部には、自身が”クライミング出来ない”、”若い頃にクライミングと出会ってなかった”もしくは”クライミングできる環境で無かった”等々の「妬み」がアリアリなんですよ。

〇〇さんも雑誌で瑞牆の開拓してる時、自然保護区かをしらなくて無許可で開拓してしまって、那智の滝事件のスタッフを咎められない・・・みたいに書いてられました。器が大きいというかクライマーなんですね。

〇僕は一人の関西人として大峰山ののぞきや那智に小学校時代お参りに行った経験から微妙な気持ちになったことは確かです。そういうクライマーと一般の方の見解のずれが大きなアクセス問題を生んでいるように思えます。

◎信仰の対象の滝を冒涜したと一般人は感じるでしょうし、当然と思います。この記事を読んでそうではなかった、むしろ自然への信仰、自然へ飛び込む行為だと言ってますね。一般の会社員で働いてる私はクライミングという危険な遊びをしてる人、変人、そして怪我した人=危ない人 みたいに思われてると思います。いろいろ考えさせられる事件だと思います。

〇色々な立場や考えの人が居て、簡単には割り切れない事件ですが、一番の問題は「登る=冒涜」って短絡的な発想だと思います。
穿った見方ですが、信者が白装束で麻縄使って登ったら、称賛されたりしたのかな、とか思ったりもしました。
3人共関西人じゃ無いので、良く分からなかったんでしょうね。私は関西人なんで、ニュースを聞いた時は、バカだな〜と思いましたよ。


〇あほやな~て感じなんですが・・・それでは済ましてくれなかったんですわ 宮司さんも世間も一般クライマーも クライミングを理解して貰う なかなか難しい クライミング界でも難しいのに・・・クライミングがメジャーになってその真髄も理解されればと思います。

〇僕らが日光の華厳の滝を登りに行くようなもんやもんね

〇回りで騒ぐ輩は匿名で自分だけ安全なところから叩いてる連中なので、無視すればいいし、私もそんなのは気にしないようにしてます。
でも、地元の人、信仰している人、当事者にとっては許せない行為だったんでしょうね。 そこは彼も反省しているようです。
真正クライマーやパイオニアは未知の困難なルートに挑んでいくのが性なのでしょうから欲求としてはわかりますが、那智の滝は下界、神域と繋がりすぎていたことが問題を大きくしたんだと思うし、そうした社会性に配慮できる感性に乏しかったんだと思う。


〇私自身、最近のルール、マナーを声高に正論を押し付ける風潮は息苦しく感じています。山や岩や沢に登ってはならないルートなんて本来ないはずだと思うのです。 メジャーな山は登山道が行列になっているようなところがあり、ルートを外して岩場をショートカットすることもある。(落石など注意したうえで)それをけしからんという人が多いわけですが、そもそもどこを登ろうが他人に迷惑をかけなければいいと思う。


〇その通りですね。山や岩や沢、どこを登ろうが迷惑をかけなければ自由です。
那智の滝の登攀がわかりやすく、クライミングの問題を考えさせられたと思います。

〇そもそもバリエーション登山の多くは「黙認」によって成り立っているのだし、明日は我が身と思うことはあれ、批判する気には全くならなかったな〜。
社会的な影響の大小はあれ、あまり変わらないことをやっているという自覚はあります。
「こっち側」だと思っていた人が批判してたりするのも不思議でした。ダブルスタンダードだという自覚はないのかなと。

〇あの3人のうちの一人になる登攀技術ありますもんね(笑) あの時の批判は凄かったですね。岩の開拓者は岩は山奥でやらなあかん、て言ってました。本来、ちょっと後暗いものみたいな感覚が、昔はあったようです。いろいろ考え出したらジムで登るしかなくなってきますよね。

〇私は、信仰そっちのけで拝金主義に陥った社寺仏閣をまったく信用してないので、人間が神をタテにもっともらしく何を怒っているのか?と、あきれてたんだ…。言ったら母が怒るので黙ってたけど。

〇 流石、痛快な感想ありがとうございます‼️内心、思っていることを明確に言って頂いて、すっきりしました_(._.)_

〇知り合いから そもそも、那智の滝て誰が所有してるん?土地は神社が所有してても河川は国有地のはず。

〇名古屋で新幹線止めたるぞ!みたいな…(いや、ふと思い浮かんだ

〇国境や聖域は人間お計らいですが、そんなこととクライミングをいっしょに話すのは低俗です。自己表現は大切ですが、人の嫌がることはせんでよろしい。第一、那智の滝に登攀意欲をそそられるというのが情けない。もっと静かに自然と対話しましょう。山も岩も世界には掃いて捨てるほどあります。やっぱり、目立つのは下品ですな。〇〇も〇〇も理屈に囚われている。詳しい話は個人的にしましょう。いつでもお相手しますよ、お酒を飲みながら。

〇その是非はさておき、、、
こういう試みをする若手(すくなくとも自分から見たら年齢若いし心も若い)クライマーが日本にもまだいるんだな、と少しホッとした。

こんなこと書いたら炎上しちゃうかな?


〇その通りだと思います。クライマーてアウトローなものだと思います。世間からはズレていてもやっぱりそういう人が私は好きです(炎上)

〇アウトローが嫌いなのではない。目立ちがり屋が嫌いなのです。本気で世間と喧嘩する気があるのかな。簡単に謝るなよ。想像力の欠如が嫌なんです。クライマーは決して世間からはみ出た人間ではないですよ。わたくしごとに熱中している、どこにでもいるフツーの人です。ちょっと自意識が過剰なのではないかと思うんですけど。(炎上を消火します)

〇私の知り合いの昔、岩場を開拓したクライマーは岩のルートは山奥でせなあかん。て言ってました。クライミングは公ではなくちょっと反社会的な後暗い行為のような感じでしょうか。一般人には理解しがたい行為。同じ人種のクライマーが正義を振りかざしてバッシングしたことが、ちょっと理解し難かった。彼らは悪かったと思っていたから即、謝罪したんだと思います。深く考えずクライミングして、謝罪した彼らを私はある意味人間らしいフツーの人だと思います。そして誰もが罪を犯して生きているのではないでしょうか。

〇クライミングは反社会的な行為ではありません。彼らは何を悪いことだと思ったのでしょうか?それが答えです。

〇神域の滝を許可なく登ったことに対してですよね。根回しや配慮なくクライミングを行ったことに対して、これがクライミングではなかったらどうなのか?人其々のクライミングの想いが違いますね。

〇何で謝ったのかなあ。

〇神社の信仰の深さに参ったからでしょうか。

〇違います。プライバシーに踏み込んだからです。クライミングなんか持ちだす必要はありません。常識のないガキです。

〇そうかぁプライベート・・・今度、常識ないガキの3名と私も含めて◯◯さんにご教授お願い致します(^^;)お酒飲みながら・・・

〇いつでもいらっしゃい。〇と〇も呼んで。みんな嫌がると思うけど。

〇3名の方はFB上の知り合いなので機会があればお願いできるかもです(笑)

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# by kounoproclimb | 2018-10-15 14:40

プロテインについて

クライマーに限らずすべてのアスリートにとってどれぐらいのプロテインを摂取すればよいのかは悩ましいところですが、www.climbing.comに非常に興味深い記事が掲載されていたので、翻訳してみました(部分的にわかりにくいところは意訳しています。また誤訳があるかもしれません。記事内容の妥当性は関知しません)。ちなみに「プロテイン(Protein)」は「タンパク質」と訳出せずに、そのまま「プロテイン」としています。プロテインとタンパク質が違うものだと思っている人が意外に多いですが。

ここで訳しているのはPart1だけであり、興味のある人はPart2、Part3も読んでみてください。

● クライミング栄養学:クライマーに必要なプロテイン
ほとんどの人は、自分にとって必要なプロテインのことをきちんと理解していると思っています ― 単に摂れるだけ摂ればよいと― そうではありませんか? あるいは、「オレはボディビルダーではなくクライマーなんだから、そんなにたくさん摂る必要はないよ。ようするに、前腕なんて小さな筋肉なんだし、そうだろ? 筋肉を維持するだけならプロテインをそんなに摂らなくても・・・」というように考えているかもしれません。いずれにせよ、今まで私が出会った人たちの中で、プロテインのことを全然理解できていないと躊躇なく言える人はほんのわずかであり、 ほとんどの人たちはプロテインについて「間違った」考えを頑なに持っています。しかしそれは、彼らが(あるいはあたなたが)悪いのではありません。プロテインをきちんと理解することは難しいのです。

問題となるのは、他の主要な栄養素とプロテインの働きはまったく異なるということです。脂肪や炭水化物は、分解される過程でエネルギーを供給するため仕組みを把握しやすいのですが、プロテインの大部分はそうではありません。熱量計で計った場合に、酸素によって4キロ・カロリーのエネルギーを生み出すという意味でプロテインにはカロリーが存在します(1グラムのガソリンは10.5キロ・カロリーのエネルギーを生み出す)。しかし日常の私たちの体は、脂肪や炭水化物を熱源にするのと同じようにプロテインを熱源にするわけではありません。確かに、プロテインから炭水化物へは、限定的ないくらかの変換があり、ポタポタと水が滴り落ちるようにエネルギーを供給します。しかしプロテインの大部分は、体そのものを造って維持するために使われます。そのプロセスは「摂取カロリーと消費カロリー」のような線形的な方程式に従うわけではありません。このことがプロテインの理解を困難にしているのです。

過去においては、必要なプロテイン量を算出する目安として体重が利用されてきました。例えば、「激しいスポーツをするなら体重キロ・グラム当たり1.4~2.0グラムのプロテインを摂取しよう」というような指標があります。この「キロ・グラムあたりのグラム数」というモデルは、私たちの健康に必要な「最低量」のプロテインを見積もるのであれば、信頼できる正しいモデルです(それはキロ・グラムあたり0.8グラムもしくは体重を3で割ったオンス値となります)。しかし目的が異なるのであれば、まったく別の指標が必要となるでしょう。現在、私たちは、アスリートのために、この「キロ・グラムあたりのグラム数」モデルから離れ、プロテイン摂取量の「新しい」モデルを採用すべき十分な研究結果を得ています。なぜ(新しいモデルを採用すべき)なのかを見ていきましょう。

● 偶然の正確さ
最初に、プロテインの必要量を算出するための「キロ・グラムあたりのグラム数」モデルはうまく機能しているものの、多くの場合たまたまそうなっただけだということを説明することから始めましょう。持久系とパワー系のアスリートが1日にどのぐらいプロテインを摂取すべきなのかについては研究によって異なる数値が出ていますが、それらのほとんどは「体重キロ・グラムあたり1日に最低1.2グラムから最大2.0グラム」という非常に狭い範囲に収まっています。プロテイン摂取量として体重や競技種類を考慮するなら、この数値は明らかに相当幅広い範囲を提示していますが、このモデルを採用するほとんどのアスリートは最低でも1日に100グラムの、そしておそらくは120グラムに近いプロテインを摂取していると考えることができるでしょう。

そして、もしこれぐらいのプロテインを摂取しているのであれば、それは多過ぎず、少な過ぎない、プロテインの「理想的な量」と呼べる、より新しいモデルに非常に近いことになるのです。しかしながら、 「より新しいモデル」では、体重や性別はもちろん、どのようなタイプのアスリートであるかということさえ、ほとんど気にする必要はありません。なぜならこれらの要因はすべて、プロテインの基本的な代謝作用においてまったく関係がないからです。

仮にあなたが100ポンド(約45kg)の痩せ型体型であっても、あるいは300ポンド(約136kg)のがっしりとした体型であっても、ほとんど完全に同じ方法で体は食べ物を消化吸収し、得られたプロテインに対して生理反応することになるからです。これは、直感に反すると思われることは理解できますし、典型的な男性アスリートは典型的な女性アスリートよりも筋肉隆々としていることもケース・スタディから明白です。しかしケース・スタディは、場合によってはまったく参考にならない、ということもまた事実なのです。「プロテインの量」と「刺激のタイプ(たとえば運動のような)」の両要因が与えられた場合に、すべての人はプロテインに対してほぼ正確に同じ生理的反応を生じるのです。男性は女性よりもテストステロンの基準値レベルが高いため、最終的に男性は女性よりも、より筋肉質になるようであり、それは長期間にわたって男性の体をより筋肉質へと成長させていく傾向があります(これは思春期にはとりわけ顕著です)。しかし、単に同じ練習を行い、同じ量のプロテインを摂取した何人かの男女を調査した時、 短期間においては筋肉とタンパク質の合成に違いがないことがわかります。

では、「キロ・グラムあたりのグラム数」モデルが、なぜおおよそ正確になるのかについての説明はこれぐらいにして、新しいモデルそのものを説明していきましょう。

● 新しいプロテイン・モデル
新しいプロテイン・モデルは・・・

正直に言えば、実際には「新しいプロテイン・モデル」というのは存在しません。Googleで検索しても何も見つからないでしょう。

本当のところは、単にあなたの興味を煽るために私がその用語を作り上げたのであり、実際にはそのような「新しいモデル」というものは存在しません。しかし、私たちの最近の研究から得られた結果を考えた場合、それはまさに私が推奨しようとしているものに非常に近いモデルがあるだろうと、程なく確信することになるでしょう。ここまで十分に引っ張ってきたと思うので、それがなぜなのかすぐに説明することにします。

新しい「タンパク質モデル」は以下となります

「身長や体重、性別にかかわらず、すべてのアスリート(クライマーを含む)は毎日、約3時間区切りで均等に20グラムずつ分けられた120グラムのプロテイン取得を目標にすべきである」

その単純なモデルは、これですべてです。

男性であろうが女性であろうが、痩せていようが筋骨隆々だろうが、競技種目がクライミング、バイク、スイミング、バーベル上げだろうが、それらはまったく重要ではありません。すべての人は、3時間ごと6回の食事による、まったく同量のプロテインから恩恵を得ることができるのです。あるいは別の観点から言うなら、あなたはすでに毎日十分な量のプロテインを摂っているかもしれませんが、適切なタイミングで摂取できていないかもしれないということです。

この新しいモデルによって、決して大きな(モデルとの)ギャップを抱えることなく、一日に数回プロテインを大量摂取しなくてもいいように、プロテインの摂取方法を変えることになるでしょう。一日の初めにプロテインの豊富な朝食を食べ、午前中のどこかでプロテインの豊富な軽食を取り、そしてプロテインの豊富な昼食を食べるようにしましょう。午後には、別のプロテインの豊富な軽食を楽しみ、プロテインが豊富な夕食を食べ、そして寝る直前に最後のプロテインの豊富な軽食を取ってください。これらの食事すべてにおいて「プロテインの豊富」という言葉が表すのは「20グラムのプロテイン」という意味であり、これは普段あなたが昼食や夕食で摂取する(プロテイン量)よりもはるかに少なく、他の食事や軽食で摂取する量よりは、はるかに多い数字です。

簡単でしょう? ひょっとして簡単すぎましたか? あるいは私の言うことを信じないかもしれませんね。いいでしょう、では「なぜこれが正しいのか」、私が示すことのできる「科学」に目を向けていくことにします。

● 筋肉とタンパク質の合成を最大化しよう!
おそらくあなたの最初の疑問は「いったいどこから20グラムという値が出てきたんだ?」というようなものかもしれません。この数値は適当な値に見えるかもしれませんが、そうではありません。複数の研究結果に基づいているのですが、それら研究のすべてが、「タンパク質の摂取が20グラムに達したとき、筋肉とタンパク質の合成は頭打ちになる」ということを示しています。

例えば、この研究(http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/24257722)では、20グラムと40グラムのホエイ・プロテインが実際にはまったく同じ「筋肉とプロテインの合成」をもたらすことを示しています。

あるいはこの研究(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/19056590)では、卵のプロテインを使った実験で、20グラムだろうが40グラムだろうが、筋肉とプロテインの合成はほとんど正確に同じであるということを示しています。

それからこちらの研究(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/19699838)からわかるのは、12オンスの赤身の牛挽肉 (90グラムのプロテイン)を食べることと、たった4オンスの赤身の牛挽肉(30グラムのプロテイン)を食べることは、結果としてまったく同じ筋肉とプロテインの合成をもたらすということです。

さらに実際には、統計的に有意ではないかもしれないものの、赤身の牛挽肉を食べれば食べるほど、結果として筋肉とプロテインの合成が低下していくということを最後の研究は示しています。

これらの実験は、混成グループ(若い人、高齢の人、男性、女性、トレーニングしている人、していない人)に与えられた3種類のまったく異なるプロテインによるものですが、いずれの実験結果も実質的には同じことを示しており、それは20グラムのプロテインこそが筋肉とプロテインの合成を最大限に促すということです。唯一検証すべき点として、これら(実験で使用した)すべてのプロテインは高品質なプロテインであり、つまり必須アミノ酸を豊富に含んでいるということです。しかしこれは問題にはなりませんよね? 食べるものの選択肢が限られている完全菜食主義者でさえ、食事において高品質から低品質まで、さまざまなプロテインを選択することができるからです。

(私たちは他の記事でプロテインの品質の理論を取り上げますが、現時点で知っておく必要があるのは、最高品質のプロテイン源は、まさにあなたがすでに考えているものだけだということです。つまり肉や魚、乳製品、卵、大豆、そして米と豆です)

筋肉を「最大限に成長させる」ために、どれぐらいのプロテインが必要かということに関する膨大な数の研究のすべてが概ね同じ結論に達していおり、これこそが私の20グラムという値の根拠なのです。その一方でまた、先ほど2つの研究は、10グラムのプロテイン摂取では、筋肉とプロテインの合成を促進するための効果が著しく低いということも示しています。したがって(筋肉とプロテインの合成の効果を示す)曲線は、20グラム辺りまでは急カーブで上昇することになり、そこからは横ばいになるということです(数学に詳しいなら対数的と言えばわかるでしょう) 。それゆえに20グラムというのは、筋肉とプロテインの合成を最大値の90%以上に十分に引き上げるための特別な値であり、それ以上の摂取はプロテインの無駄遣いになるだけです。

では、「3時間ごとに」という部分についてはどうでしょう? この質問に答えるためには別の研究結果も参照する必要があります。そしてその後、私たちが上記の研究から学んだことをベースに、さらにいくつかの手順を踏んで1つの理論を取り上げることにしましょう。私が言及したこの別の研究(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/23459753)の目的は、同量のプロテインが、筋肉との総合的な合成に影響を与えるタイミングを計測することです。そのため、研究者たちは実験参加者全員に対して全部で80グラムのホエイ・プロテインを用意し、摂取するタイミングと、1回に摂取する量だけを変えて実験を行いました。その内容は以下のとおりです:

・ グループ1は10グラムのプロテインを1.5時間ごとに8回摂取
・ グループ2は20グラムのプロテインを3時間ごとに4回摂取
・ グループ3は40グラムのプロテインを6時間ごとに3回摂取

験結果はおそらく予想通りだと思いますが、グループ2はグループ1およびグループ3よりも著しく有意に筋肉とプロテインの合成をもたらすことになりました(12時間にわたる平均値)。「3時間ごとに20グラム」というルールが信頼に足るための、強固な指標がこの実験からすでに出ているわけですが、万全を期すために、さらにもう少し見ていきましょう。

上記研究について指摘されるかもしれない点があるとすれば、ホエイは「(吸収が) 速い」プロテインとしてよく知られているということです。消化・吸収の速さという観点からは、ホエイにかなうものはほとんどありません。ホエイは、私たちの体に非常に速く吸収されるというこの的確な理由から、実際にプロテインの王様と考えられています。しかし、この絶対君主ホエイの弱点として、アミノ酸が消えてしまうのもまた非常に速いということが挙げられます。ホエイのアミノ酸は血液中を駆け巡り、わずか数時間後には消失してしまうのです。

一方で、ゆっくりと消化されるプロテインは、より長時間にわたって血中アミノ酸を高レベルに保ち続けます。このことを考えると、遅いプロテインと比べた場合にホエイの消化スピードの速さは 、より短い間隔で摂取することが確実に有利に働くのであり、それが、グループ2がグループ3よりもはるかに好成績だったひとつの理由であると思うかもしれません。これはもっともらしい仮説に見えますが、他の研究から学んだことも検討してみましょう。

上記の3つの研究のうち2つは卵と牛肉の 「(消化の)遅い」プロテインを使用しています。卵と牛肉の実験では、20グラムよりも多くのプロテインを投与したにもかかわらず、筋肉とプロテインの合成をより大きなレベルに引き上げることはできませんでした。それは、4時間(卵)もしくは5時間(牛肉)にわたって計測したときでさえ結果は同じでした。もし「遅いプロテイン」が、長時間に渡って筋肉とプロテインの合成を高めるのに、より優れていたのであれば、これらの「遅いプロテイン」の効果を、4~5時間という長時間に渡ってずっと観測することができたでしょう。しかしながら、そのような結果は観測されませんでした。代わりに、余分に与えられたプロテインから生成されたすべての余分なアミノ酸は、単に酸化してエネルギーに変換され、あるいは不要な窒素へと変換されただけでした。これら20グラムを超える余分な「遅いプロテイン」にも価値があるにもかかわらず、それらは摂取されていないのと同じかもしれないということです。

したがって、上記研究から学んだことをすべて併せて考えると、合理的な確実性をもって以下のように言うことができます。

1. 食事において高品質のプロテインを20グラム以上摂取する必要はありません。
2. 食事は約3時間ごとに分けるのが理想的です。

そしてこのことが、120グラムという特別な数字を私たちにもたらすことになります。なぜなら、真夜中に軽食を食べるのでなければ、3時間ごとに分けられた6回の食事時間だけを確保すればよいからです(つまり7時、10時、13時、16時、19時、22時 ― 15時間における6回の食事です)

● パート1の要約
したがって、これがプロテインのための「新しいモデル」です。このモデルはきわめて単純であり、特定の個人に依存せず、そしておそらく、絶対知っておくべきスポーツ栄養学の最もやさしい具体例となります(なぜそれがそんなふうにうまくいくのか、本当に理解してもらうことは依然としてとんでもなく難しいですが)。

「1日に20グラムずつ3時間ごとの6回の食事に分けた120グラムのプロテイン」

この理論には、実際にはいくつかの反論やちょっとした突込みどころもありますが、食事におけるプロテインの潜在力を最大限に引き出すためには、このとても基本的な理論だけを知っておけばよいということです。次のいくつかのパートでは、この推奨理論の残りの部分を理解できるように、反論や些細な点を詳細に検討していきましょう。しかしここで読むのを止めるなら(そしてアドバイスにしたがうなら)、それでもかまわないでしょう。

CLIMBING.COM
The following article originally appeared on ClimbingNutrition.com. Whether you’re looking for help sorting through supplements, need advice on how to fuel yourself for your project, or just want some general tips for using nutrition to stay fit and healthy in your sport, Climbing Nutrition is…


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# by kounoproclimb | 2018-07-06 14:16

アイシングについて


昔からアイシングに対しては懐疑的で、実際に怪我や故障に対してアイシングしたことはありませんが、世間ではほとんど盲目的とも言えるぐらいアイシング信奉が強いように思います。近年の海外の文献では、アイシングに対して否定的な意見が主流を占めるようになってきていますが、国内ではスポーツ医学関連の専門家とも言えるような人たちでさえ、新しい知見を得ようとせずにアイシングを勧めている人がいることには疑問を感じます。アイシング擁護派の彼らがよく引用するRICEの提唱者Dr. Gabe Mirkin氏が、自身のRICE理論が適切ではなかったことを記事として昨年書いています。アイシングの効果の是非を論じるつもりはありませんが、周りで盲目的にアイシングをしている人たちがあまりにも多いので、簡単に記事を訳してみました。クライミングだけでなく激しいスポーツを日常的にしている人は一度読んでみることをお勧めします。

【原文】
http://drmirkin.com/fitness/why-ice-delays-recovery.html

『なぜアイシングは治癒を遅らせるのか』
ベストセラーとなった著書『Sportsmedicine Book』を書いた時、私は運動競技における怪我の処置に対してRICE(Rest:安静, Ice:冷却, Compression:圧縮, Elevation:挙上)と名付けました。損傷した組織から引き起こされる痛みを和らげるのに役立つという理由で、アイシング(Ice)は、怪我や筋肉痛のための標準的な治療法となってきました。以来数十年に渡ってコーチたちは、私が作成したRICEガイドラインを使用してきましたが、どうやらIceおよび完全なRestは、治癒を助けるどころか、遅らせるかもしれないということがわかってきています。

最近の調査では、運動選手は非常に激しい練習を課されており、広範囲に及ぶ筋肉痛からなる深刻な筋肉ダメージを発症しています。アイシングによって腫れを遅らせることはできても、アイシングが筋肉損傷からの治癒を早めることはありません(The American Journal of Sports Medicine, June 2013 )。22の科学論文の要約からわかることは、アイシング(Ice)と圧迫(Compression)の組み合わせが、圧迫を単独で使用した場合よりも治癒を促進したというエビデンスがほとんど存在しないということです。もっとも、アイシングに加えた運動が、足首の捻挫の治癒にわずかに役立つかもしれないとのことですが(The American Journal of Sports Medicine, January, 2004;32(1):251-261)

【治癒には炎症が必要】
非常に激しい練習による外傷や筋肉痛によって組織に損傷を与えたとき、体は 自己の免疫系を用いてそれを治癒しますが、それは病原菌を殺すのに用いるのと同じ生物学的なメカニズムであり、これは「炎症」と呼ばれています。病原菌が体内に侵入した際、免疫系はその病原菌を殺すために、感染した場所に細胞とタンパク質を送り込みます。筋肉とその他の組織が損傷を受けた際にも同様に、治癒を促進するために免疫系は損傷組織に対して炎症細胞を送り込みます。感染と組織の損傷の両者に対する反応は同じであるということです。炎症細胞は治癒を促進するため、損傷組織に対して駆けつけることになります(Journal of American Academy of Orthopedic Surgeons, Vol 7, No 5, 1999 )。IGF-1(Insulin-like Growth Factor)と呼ばれるホルモンから損傷組織に対して分泌されるこのマクロファージと呼ばれる炎症細胞は、筋肉やそれ以外の受傷部分を治癒するのに役立ちます。しかしながら、腫れを軽減するためにアイシングすることは、実際のところ、IGF-1の分泌を妨げることによって 治癒を遅らせることになります。

ある研究論文の著者は2つの実験用マウスのグループを使用しました。1つのグループは遺伝子操作されており、マウスたちは怪我に対して通常望ましい炎症反応を生じることができません。もう一方のグループは普通に炎症反応を生じることができました。そして科学者たちは筋肉に対して損傷を与えるために塩化バリウムを注入しました。望ましい免疫反応を生じさせることのできないマウスの筋肉は回復せず、一方で普通の免疫機能を持ったマウスは速やかに回復しました。回復したマウスには、損傷した筋肉部分に極めて大量のIGF-1が確認されましたが、回復しなかったマウスにはほとんどIGF-1が見つかりませんでした(Federation of American Societies for Experimental Biology, November 2010)。

【損傷組織に対して治癒に必要な細胞を送り込むことをアイシングは妨げる】
損傷組織に対してアイシングすることは、損傷箇所付近の血管を収縮させ、治癒に必要な炎症細胞を届ける血流を遮断させることになります(Knee Surg Sports Traumatol Arthrosc, published online Feb 23, 2014)。アイシング後、数時間が経過しても血管は再び拡がることはありません。この血流の減少は組織の壊死を招く可能性があり、永久的な神経の損傷さえ招くかもしれません。

【炎症を抑えるあらゆる行為は治癒をも遅らせる】
免疫反応を抑えるどのような行為も、同時に筋肉の治癒をも遅らせることになるでしょう。それゆえ以下に挙げるものは治癒を遅らせることになります。
・ コーチゾンを含む薬品
・ イブプロフェンのような非ステロイド系の抗炎症薬など、ほぼすべての鎮痛剤
・ 関節炎や癌、乾癬などの治療によく使われる免疫抑制剤
・ コールド・パックやアイシング
・ 怪我に対して免疫反応をブロックするあらゆるもの

【アイシングは強度、スピード、耐久力、協調性を減少させる】
アイシングは、怪我をした運動選手が試合に戻ることを助けるための短期的な処置として頻繁に使われてきました。アイシングは痛みを軽減するのに役立つかもしれませんが、運動選手の強さ、スピード、耐久力、協調性などを妨げることになります(Sports Med, Nov 28, 2011 )。この論文では、アイシングの影響について調べた35件の研究を取り上げています。ほとんどの研究では20分以上アイシングを行い、そしてその大部分において、アイシング直後に強度、スピード、パワー、敏捷性のランニング能力に減少が見られたと報告しています。腫れを抑えるためにアイシングを完全に終えたら(5分未満にすべき)、続いて競技に戻る前に斬新的に暖めることをこの著者は推奨しています。

【推奨】
怪我をしたなら、即座に練習をやめることです。痛みが酷く、動かすことができな場合や、意識が混乱していたり瞬間的でも意識を失ったのであれば、緊急の医療手当てが必要かどうか検査を受けてください。開放創であれば、傷口を清潔に保ち、検査を受けてください。可能であれば、重力を利用して腫れを最小限に抑えるため、傷害部分を挙上するようにしてください。スポーツ傷害の専門家であれば、骨が折れていないか、そして動かすことで損傷が酷くならないかを判断しなければなりません。筋肉もしくはそれ以外の軟組織に限定された怪我なら、医師やトレーナー、コーチは圧縮包帯で巻いてもかまいません。アイシングは怪我の痛みを和らげるため、受傷後すぐに短い時間であれば冷やしてもいいでしょう。アイシングは最大でも10分とし、20分は氷を外し、その後1、2回、10分間のアイシングを適用します。怪我をしてから6時間以上経過した後にアイシングする理由はありません。

怪我が深刻である場合、リハビリにおいては医師のアドバイスに従ってください。軽い怪我であれば、通常は翌日にはリハビリを開始することができます。その動作によって痛みが増したり不快感がないのであれば、怪我をした部分を動かして使うことができます。痛みを感じることなく動かせるなら、即座に運動を再開してください。


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# by kounoproclimb | 2018-07-05 16:45

「空気」と「世間」

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鴻上尚司さんの本「空気と世間」を読んだ。西洋的な社会と個人主義、日本人の世間と空気、中学生でもわかるように、書かれていて読みやすく尚且つ奥が深い。とても興味深く読み進めた。

僕がまだ普通のサラリーマンだった頃勤めていた会社は、週1回の朝礼でいろんなことを形だけでも民主的に決めていました。
小さな中小企業でしたがちゃんと従業員食堂があり、福利厚生もしっかりしていたのです。
夕食は食堂のオバチャンが昼食のあまりで簡単な軽食を用意、ある時間が過ぎれば申込んでいなくても誰でも食べていいというような緩い運営でしたが、食堂のリニューアルに合わせて夜は廃止にしようという話がわいてきました。
夕食在続のため僕は昼休みを使って社内を回り、賛同者を集めある程度いい感触をつかんでいたのですが、
結局、話し合いの時に手を挙げたのは僕一人でした。
そう、僕は昔から空気が読めない人だったんです。(笑)
だからといって、決して孤立していたわけではありません。
ただ、今ほどクライミングの認知度はなかったので、週末誘っても絶対来ない変なヤツというレッテルは貼られていたと思います。

それから何年かたって、まだ終身雇用の風土がかろうじて残っているバス「この会社」から途中下車することになって、初めてその息苦しさを感じることが出来ました。
今なら、同僚たちが何に縛られ、何を守ろうとしていたのかある程度は想像し理解することが出来るようになりました。

Wikipediaより
こうかみ しょうじ
鴻上 尚史
生誕1958年8月2日(59歳)
日本の旗 日本 愛媛県新居浜市
出身校早稲田大学
職業劇作家、演出家

鴻上 尚史(こうかみ しょうじ、1958年8月2日 - )は、日本の劇作家演出家である。劇団第三舞台』主宰。日本劇作家協会会長(代表理事)[1]日本劇団協議会日本演出者協会理事。桐朋学園芸術短期大学教授。株式会社サードステージ代表取締役。

2001年平成13年)より、劇団第三舞台の活動を10年間封印することを宣言。それ以降はプロデュースユニットKOKAMI@network(コウカミ・ネットワーク)』を中心に活動している。2008年(平成20年)5月には『虚構の劇団』を旗揚げ。株式会社ホリプロのマネジメントにより、テレビ、ラジオなどへも出演している


目次

  • 第1章 「空気を読め!」はなぜ無敵か?
  • お笑い番組の「空気」/「順番に来るいじめ」/日常というテレビ番組/
  • 司会者がいない場の空気に怯えるな etc.
  • 第2章 世間とは何か
  • 席取りをするおばさんの「世間」と「社会」/ 「しようがない」の意味/
  • インテリが無視する「世間」/西洋にも「世間」はあった/
  • 神と「世間」の役割は同じ etc.
  • 第3章 「世間」と「空気」
  • 「世間」が流動化したものが「空気」/日本人がパーティーが苦手な理由/
  • 差別意識のない差別の道徳etc.
  • 第4章 「空気」に対抗する方法
  • 絶対化に対抗する相対的な視点/ 「多数決」さえ絶対化する日本人/
  • 議論を拒否する「空気」の支配/「空気」の世界は理屈のない世界etc.
  • 第5章 「世間」が壊れ「空気」が流行る時代
  • 中途半端に壊れている「世間」/精神的なグローバル化/
  • 不安と共に急速に壊れ始めた/超格差社会を生きる個人を支えるキリスト教/
  • 空気で手に入るのは「共同体の匂い」/抑圧としての「世間」にうんざりする人々etc.
  • 第6章 あなたを支えるもの
  • 資本主義の「中世」化/「世間」を感じるために他者を攻撃する/
  • ほんの少し強い「個人」になるetc.
  • 第7章 「社会」と出会う方法
  • 「世間」に向けて発信した秋葉原連続通り魔事件の被告/「社会」に向かって書くということ/
  • 「社会」と出会うための日本語/複数の共同体にゆるやかに所属するetc.



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    # by kounoproclimb | 2018-05-13 18:58 | 本,雑誌

    シンドラーのリスト

    ゴールデンウイークは比較的時間があるので、日頃見れないDVDを
    じっくり見ようと「シンドラーのリスト」を借りてきた。
    昔からずっと見ようと思っていたのだが、3時間以上の
    長い映画なので最後まで集中できるか心配だった~
    ホロコーストを扱った重いテーマへの覚悟と人としてそんなに成熟しているのだろうかという危惧と~

    一つ目の心配は杞憂に終わった。何回かに分けてみようと思っていたのに
    最後まで一気に見てしまったから~
    でも、このDVDをアクションコーナーに置くのはやめてほしい。
    15分以上探してわからなくて店内検索でようやくジャンルがわかって
    見つける事ができた。

    余談はこれぐらいにして本題に、いやその前に25年も前の映画なので簡単に説明しよう。

    シンドラーのリスト』(: Schindler's List)は、スティーヴン・スピルバーグ監督による1993年アメリカ映画

    日本での公開は1994年2月。配給はUIP

    第二次世界大戦時にドイツによるユダヤ人の組織的大量虐殺(ホロコースト)が東欧のドイツ占領地で進む中、ドイツ人実業家オスカー・シンドラーが1100人以上ものポーランド系ユダヤ人を自身が経営する軍需工場に必要な生産力だという名目で絶滅収容所送りを阻止し、その命を救った実話を描く。

    ホロコーストに関する映画の代表的作品として知られる。

    a0032559_17322450.jpg
    感想を書くと予想していた内容とシンドラーの人間性があまりにも違い、知らぬ間に映画に引き込まれてしまった。

    主演がリーアム・ニーソンだと気がつくのにはだいぶ時間がかかった。
    ベン・キングスレーにも~
    それだけ俳優陣はもはや映画という枠を飛び出している。
    そして一番、人間の狂気と色気を強烈に感じたのは、強制収容所所長アーモン・ゲート役のレイフ・ファインズだ。
    僕は学生時代から映画ファンの友人が何人もいたので、名作といわれる映画はほとんど見てきた。
    何故、この映画だけ今まで出会ってなかったんだろう。

    今も頭の中をイツァーク・パールマンのバイオリンがずっと

    エンドレスに流れている。

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    # by kounoproclimb | 2018-05-09 17:32 | その他

    Their Finest

    a0032559_10224360.jpg
    「人生はシネマテイック」見ました。
    「ダンケルク」「チャーチル」「償い」と最近イギリス映画づいています。
    第2次世界大戦当時、戦意高揚のため、ダンケルクを題材としたプロパガンダ映画の脚本を書く女性主人公の話、劇中劇になっています。
    地味な映画なのに映画評論家などの評価が異様に高く、期待が膨らみます!
    原題の「their finest」は1940年、チャーチルがイギリス議会下院で行った有名な演説が由来のようです。
    映画の中にも、素敵なセリフが散りばめられていて、映画ファンなら是非見てほしい映画でした。

    「我々にチャンスがまわるのは若い男が出兵しているからだ
     或いは死んでいるから・・

     だがチャンスに背を向けるのは死に生を支配させるのと同じだ
    大きな喪失感に捕らわれていようと~」


    「見た瞬間、それがほしいと思い
     どんなに強く望んでも手に入らないものはあるか?

     俺にはある

     それは生きる力を奪うか、燃え続ける炎を与えるかだ

     俺は出だしにいなかった

     だが結末は必ず見届ける
     正しい結末にすべきだからだ
     戦う価値のあるような結末に」


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    # by kounoproclimb | 2018-05-05 10:20

    光州事件

    現在、公開されている韓国の映画「タクシー運転手」、現地で取材していた日本(朝日新聞)の記者がいた。

    民主化を求めた光州事件の教訓―その取材記から

    ▽2008・07・15
    非核の政府を求める京都の会
    斉藤 忠臣
    みなさん、こんにちは。斉藤忠臣でございます。改めましてよろしくお願いをいたします。本日
    は28年前の5月に、韓国は光州市における光州民主化運動、いわゆる「光州事件」について、
    その取材からの報告をさせていただきます。
    「光州事件」の概要につきましては、お手元のコピーを眺めていただければと思います。
    で、いまなぜ「光州」なのかということですが、実は昨年の秋10月、光州市にあります湖南大
    学で「平和」をキーワードにしたシンポジウムがあり、そこで光州事件について基調講演という
    形で話してまいりました。
    1980年5月に光州であった出来事―つまり軍隊が国民に銃剣を向け殺すという、あの「光州
    事件」は、当時朝日新聞の記者だった私が、韓国を取材旅行中に遭遇した出来事でありました。
    恐らく、カメラマンを含めた私たち二人が、あの事件を取材した数少ない日本人ジャーナリスト
    ではなかったかと思います。
    そういうことで講演の依頼があったわけですが、でも、なぜ、いま光州なのかということについ
    て私なりに考えたことは、およそ次のようなものでした。
    1 金大中政権以降、さらに革新系の前ノムヒョン政権下で、政府による情報公開が進み、真相
    がさらに分かったこと。
    2 韓国内で、左右の政治勢力の再編成が繰り返され、かつての保守与党対革新野党的な構造(冷
    戦構造)がほぼ完全にくずれたこと。そのため、朴、全政権時代の様々な弾圧事件について、
    被害者側の視点だけでなく、国民的な視点で見ることが可能になったこと。
    以上のような文脈で、現代史の中に埋もれていた様々な出来事を、メディアなどで自由に表現す
    る気運が高まったのではないかと、これは私なりの分析です。ちょうど2カ月ほど前の5月10
    日に映画『光州5・18』の全国ロードショーが始まりました。ご覧になられた方もいらっしゃ
    るかと思いますが、この映画は韓国で去年7月に公開され740万人の大ヒットとなりました。
    映画を作ったキム・ジフン監督は「埋もれていた事件の真相を国民に知らせ、自分の無知を犠牲
    者の方々に懺悔(ざんげ)する映画を作りたかった」とインタビューに答えています。
    韓国では、一定の経済成長を遂げたことで、狭いナショナリズムによらない国民的な一体感が形
    成され、光州や済州など、マイノリティーとされていた地域の出来事についても、フェアで中立
    的な立場で関心が集まり始めています。かつて慶尚道エリートが政・官・経済・文化まで支配し、
    全羅道や済州島などへの差別構造がハード・ソフト両面で存在していましたが、経済発展や交通
    網の整備などで、少なくともハード面での差別構造はかなり解消されました。ソフト面でいえば、
    百済(くだら)など、古代の非・慶州(新羅)を舞台とする歴史物のドラマが流行り、文化的に
    も各地域のアイデンティティーの一つとして、見直されるようになってきています。耳にされた
    ことがあるかも知れませんが、例えば「平和の島・済州」「平和の街・光州」といったアピールな
    どがあげられます。
    私は去年の5月まで、広島平和文化センターという広島市の外郭団体の理事長をしておりました。
    63年前に広島に投下された原子爆弾による被爆体験を原点にして、核兵器の廃絶と世界の恒久
    平和の実現に向けて取り組んでいる公益法人であります。その広島と光州、この二つの都市が、
    実はまだ大学・研究者の段階ではありますが、数年前から「平和」をキーワードにした交流を始
    めています。シンポジウムの開催はその一環でもありました。

    2

    それでは私が経験した光州事件を、当時の取材メモや掲載した記事などをもとにお話させていた
    だきます。まず、私たちが1980年5月にどうして韓国・光州市内にいたかということであり
    ます。
    朝日新聞はその前年の1979年に創刊100周年を迎えておりました。そしてそれを記念して
    日曜版に「世界史の舞台」を、また夕刊に「世界30万キロドライブ」の連載をはじめました。「世
    界史の舞台」は歴史の転換点に重要な出来事が起こった現場を訪ねて「現代」を考えるという趣
    向です。合わせて「世界30万キロドライブ」では、取材チームが訪れた国を車で走り、人々の生
    活などを紹介するというものでした。私とカメラマンがアメリカ・ハワイとインドネシアの取材
    を終えて韓国に入ったのは1980年の4月16日です。
    実はこの一連の大河連載の締めくくりが韓国だったのです。
    韓国での取材は「世界史の舞台」からはじめました。
    豊臣秀吉の軍勢を迎え撃った救国の英雄の李瞬臣(イスンシン)将軍の活躍とその生涯や、
    1919年3月の「独立運動」の際、日本の官憲が村人の多くを教会に閉じこめ焼き殺した堤岩
    教会の事件などを取り上げました。その紙面を持参してきましたので、よろしければ後ほどご覧
    ください。
    そして5月16日に「世界30万キロドライブ」の取材を開始し、ソウルから江原道・春川を経て
    高速道路を東海岸に向け出発しました。その2日目です、朝鮮人参などの取材し、雪岳山に登っ
    て束草の宿に帰り着いた時、朝日新聞ソウル支局から「すぐに戻ってこい」との電話があったの
    です。5月18日夕方のことでした。
    光州市で学生のデモがあり、その規模は大きくなりそうだ――というものでした。
    私たちがまだソウルにいたころ、そう、14日と15日にも全国の大学で朴大統領殺害事件のあ
    と敷かれている「非常戒厳の解除」と「全斗煥(チョンドファン)の退陣」そして「民主化」を
    求めるデモがあり、ソウルでは10万人にも迫る規模になっていました。
    (写真)
    そして学生たちは5月17日、梨花女子大で全国56大学約100人の代表者会議を開き、政府・
    軍当局は少しも「民主化」のことを考えていないと結論づけ、戒厳令の即時解除と全斗煥司令官
    の退陣を要求し、これが入れられなかったら再び街頭デモを始めると決議しました。政府・軍当
    局は、これまでの学生たちの整然とした動きを見て、先手必勝しかないと判断し、梨花女子大に
    機動隊を送って学生リーダーを連行する一方、金大中氏らも逮捕。18日午前零時を期して、こ
    れまで済州島を除いて実施していた非常戒厳令を全土に拡大しました。これは実質的なクーデタ
    ーでもありました。
    韓国の戒厳法によりますと、地域戒厳の場合は国防相が戒厳司令官の指揮監督をしますが、全国
    戒厳になれば大統領がとります。このため戒厳司令官は全国戒厳になると国防相に邪魔されずに
    大統領と直結できるわけで、その分だけ「軍服」と大統領の距離が狭まることになります。
    とくに朴大統領の死去後、たまたま大統領に就任した崔圭夏氏のように、軍への影響力がない場
    合は、「軍服」の意向がほとんど完全なかたちで伝わる結果となります。だから非常威厳が全土に
    拡大されたのは、実質的軍政に入ったことを意味しました。
    当時の日本の新聞を繰ってみます、各紙とも一面にそのような見出しが躍っています。
    朝日は「事実上の軍政移行」
    毎日は「韓国、実質的軍政下に」
    読売は「事実上の軍政に」
    日経は「全面軍政へ」
    産経は「軍部が実権握る」
    東京は「事実上の軍政しく」

    ――というものでした。

    3

    過去、朴政権の強圧ぶりを見せつけられてきたことを考えると、ですから反政府デモもこれでい
    ったん収束すると思うのが普通でした。しかし、その後で「光州の爆発」があったのです。
    あとから考えると、確かに気になることはありました。
    「光州では夜間通行禁止時間が3時間繰り上がって午後9時からになった」
    「学生のデモに市民が加わっている」
    「空挺部隊(特戦団)が制圧に出ている」といった断片的な情報が流れていたからです。現地光
    州からソウルにやって来た人の話などでは、光州市の反政府行動は、戒厳令の全土拡大後に始ま
    ったのではなくて、それ以前からずっと続いていたことも明らかになり、戒厳当局の過剰ともい
    える制圧ぶりが事態を一挙に悪化させていきます。
    このため私たちはすぐソウルに引き返し、翌19日朝、ソウルから出る定期の高速バスに飛び乗
    り光州に向かいました。しかし、光州郊外のインターチェンジで降ろされ、あとはタクシーか歩
    いていけと言われました。
    そうです、もうすでに騒乱が始まっていたのです。
    ここからは、当時の取材メモ、記憶を時系列で辿りながら話を進めてまいります。
    ▽5月16日・民主化へ点火
    私たちがソウルから東海岸に向けて出発した16日の夜、光州市にある国立の全南大学の学生た
    ちが「たいまつデモ」を行ったのが最初でした。学生たちはこの夜から学内で籠城闘争に入り、
    非常戒厳令が全国に拡大された18日朝、機動隊の排除にあいました。このとき教授の一人が立
    ちはだかり、重傷を負ったのです。一説には亡くなったと言う情報もありましたが、ともかくこ
    れが発火点になりました。
    学生たちは口々に「全斗煥(チョンドファン)退陣、非常戒厳令撤廃、言論・学園の自由を保障
    せよ」と叫びましたが、ただ口で叫ぶだけのデモで、みんなまったくの素手でした。これに軍隊
    が弾圧的な規制を加え、この日だけで相当な数の人間が死んだと聞きました。銃こそ発砲しなか
    ったが銃剣で何人も突き刺したということでした。
    そして私の取材メモ帳にはタクシーの運転手さんの話として「東芝橋のたもとで女子大生を裸に
    して殴った」という記述があり、最後に流言飛語か?とも書き加えてあります。
    ともかくこうした状況に光州市民らが「あまりにひどい、イヌ、ブタなみの扱いだ」と怒り、翌
    19日から学生を支援するようになったのです。
    (こうした光州につながる一連の動きを遡ってみますと、実は 4 月の21日にたどり着きます。
    年表の 4 月 21 日、江原道の東原炭坑で労働者決起と書いていますが、そこに至る年表の流れを見
    ても分かりますように、統制の厳しいマスコミの内部にも言論の自由を求める動きがあらわれて
    きます。有力夕刊紙『中央日報』の記者たちは、この東原炭坑で起こった労働紛争を取材中の同
    僚が捜査員に乱暴され重傷を負ったという記事が戒厳司令部の検閲で掲載禁止になると、その部
    分を白紙で出すことにし、事実、早版でそれを実行しました。朴政権下でも各紙の記事はしばし
    ばボツにさせられていました。しかし、当局は必ずその穴埋めをさせ、紙面の一部が白紙化する
    ことを禁じてきました。それが、たとえ1紙の早版だけとはいえ防げなかったわけです。
    さて、では戒厳当局はなぜ、早々と空挺部隊を光州に投入し、大々的な作戦をとったのでしょう
    か。空挺部隊というのは、当時、アジア最強と謳われた集団でした。それは、現地全羅道の反慶
    尚道感情を見なければなりません。
    先ほど少し触れましたが、全羅道と慶尚道は、昔の百済と新羅の時代から仲が悪かった。これが
    朴正煕政権18年の間に、憎しみに近いところにまで行ってしまいました。慶尚道出身の朴大統
    領は、自分の周りを慶尚道の出身者で固めます。慶尚道偏重は軍、政財界はもちろん、言論、文
    化、スポーツなどの分野にまで及びました。
    経済開発も慶尚道により多く振り向けられました。工業立国のかけ声にそって慶尚道の都市に自

    4

    動車と造船、製鉄、機械、電子工業の大工場がつくられ、自由貿易地域も設置されました。ソウ
    ルから出る高速道路も慶尚道方面へは4車線、全羅道方面へは遅くできたうえ2車線という格差
    がつけられました。ソウルとそれぞれの地方を結ぶ列車ダイヤも密度に違いがあり、特急列車の
    車両のよしあし、サービスにも差がありました。
    それが独裁的権力の下で反対の声もあげられぬまま遂行されてきたのです。
    その日の当たらぬ全羅道から一人の有望な政治家が生まれます。それが金大中氏でした。彼は野
    党の中で着々と実力をつけ、1971年4月の大統領選挙で朴正煕氏と一騎打ちするまでになり
    ました。朴陣営は大統領と同じ慶尚道出身の李厚洛KCIA部長を中心に、慶尚道の票固めと全
    羅道の切り崩しに精力を注ぎます。
    こうしたシコリは心の奥深いところに沈潜します。しかも慶尚道出身の全斗煥司令官らは戒厳令
    の全土拡大決定と同時に、「学生らの背後操縦」の疑いで金大中氏を逮捕するのです。このため金
    大中氏釈放要求などが大きくならぬうちに徹底的に抑えてしまおう、と思ったのでしょう。その
    結果の空挺部隊の派遣でした。部隊の精鋭もまた慶尚道出身者が多くを占めていたことは、いう
    までもないことでした。
    ▽5月20日・軍と対峙
    アジア最強と言われる黒ベレー(空挺部隊)が、光州市内のメーン道路はおろか路地裏まですべ
    ての要所を戦車と装甲車ジープで固めました。
    そして夕方から深夜にかけて全羅南道庁の前のメーン通り、錦南路で学生・市民側と軍隊が対峙
    するのです。
    午後6時ごろでした。錦南路二丁目の50メートル四方の交差点に学生・市民がびっしり集まり、集会
    を開きます。次々と学生が立ち上がってスローガンを叫ぶ。そのつど商店のおじさんたちがコブ
    シを振り上げ拍手をする。やがて学生らが運転するバス、タクシーがやって来て、バスが縦一列、
    その後ろに緑色のタクシーが約50台並びました。
    そのバスとタクシーがいっせいに前照灯を点け、バスが軍隊に向かって前進をはじめたのが午後
    7時25分ごろでした。
    双方の距離は約700メートル。バスは最初ゆっくり前進しました。そのうち一台のバスがすっと前に
    出ます。兵隊がさつと左右に分かれ、両側から催涙弾をぶち込みました。窓ガラスがみんな割れ、
    しばらくは煙で何も見えなくなりました。やがて中から学生がむせびながら出てきます。約10
    人でした。それを兵隊が一人に三人、四人で飛びかかり、こん棒でめった打ちにしました。
    9時半すぎ、MBC放送局に火の手があがり、あっという間に燃え上がりました。この間も錦南
    路の光州観光ホテルの中心付近では、催涙弾を撃ったあとの弾の赤い火が、あちこちで飛んでい
    るのが見えました。
    そして翌21日に本格的な銃撃戦がはじまるのです。
    ▽ 5月21日・市民の眼前 銃撃戦
    学生側が「午後3時までに道庁前に集まれ」と呼びかけ、前日まで市内のあちこちにいた戒厳軍
    もすべて道庁前に集結しました。再び錦南路で対峙したのですが、ただ前日と違うのは前面に立
    った学生たちが手に手に銃を持っていたことでした。朝には1丁しか見かけなかったのに午後に
    なるとみんなが持っていました。それをトラックの上から構えたり、全南大の屋上には機関銃が
    2丁すえつけられたという話も聞きました。
    光州から少し離れた和順の警察署と光州近郊の軍の分駐所、軍需工場などから手に入れてきたと
    いうことでした。軍用トラックやジープ、装甲車まで用意していましたし、和順の炭坑からはダ
    イナマイトを持ってきたという話もありました。
    光州の学生たちは「正当防衛」のために自らも武装したのでした。私にはそう映りました。そし
    て分乗した学生らは口々に「市民は立ち上がれ」「俺たちに続け」と叫び、主婦たちが炊き出しを
    始め、あちこちの町内ではカンパ金を入れる白線の入った学生帽が回されましたし、米や清涼飲
    料水、即席ラーメンが市民から学生側に次つぎと届けられました。

    5
    銃撃戦のきっかけは午後3時すぎのことでした。
    道庁前を固める戒厳軍と、学生・市民約1万人がにらみ合いを続ける中、突然バーンと一発の銃
    声が響きました。どちらが先に撃ったのかはわかりません。
    一帯をともかく狂気が支配しました。
    逃げまどう市民。銃を水平に構える戒厳軍兵士、学生。あとはもう騒乱状態です。私たちの近く
    で若い男が胸を押さえて倒れました。
    銃声音は戒厳軍が朝鮮大学に引き揚げる午後6時か7時ごろまで続きました。
    私たちは全南大学付属病院へ行きましたが、ここもまるで戦場でした。治療室だけでは足りずロ
    ビーにもマットが敷かれていました。三日前からの市街戦で病室はどこも満員でした。この間に
    も血に染まった人が次々に運び込まれ、遺体安置所には死体が累々と横たわっています。市民、
    大学生、高校生、それに機動隊員の遺体もありました。棺に納められた人も少なくありませんで
    した。
    懸命に治療にあたる若い医師が「学生も兵士も、ともに国を愛する気持ちに変わりはないのに...」
    とうめくように言った言葉がいまも強く印象に残っていますし、「ともかくこの惨状をこの出来事
    を、日本に、世界に伝えてくれ。光州でこんな事件が起こっていると」「そのために我われは取材
    に必要なあらゆることに協力する」。
    そう言った若い医師の真剣な眼差しもまた鮮明に覚えています。
    新聞社や放送局にも投石があり、火が放たれました。「いつも正確な報道をしない」という理由か
    らでした。
    犠牲者の遺族を訪ねました。妻と子ども、それに母親を養う腕の良い大工さん。その母親がいい
    ました。「一緒に出かけた仲間の話では、あの子は銃を持たなかったし投石もしなかった。ひと言
    だけ『非常戒厳解除』と叫んだだけだったのに...」
    その母親の話を聞いている時、突然若い男三人が飛び込んできて私たちに「お前たちは何者だ!」
    と叫んで胸元に銃を突きつけました。一人は「殺してしまえ」とも言いました。身分証明書を出
    し、取材の意図を説明すると落ち着いてきたのでしょう、「この事態を正確に世界に知らせてほし
    い」と言って走り去りました。最後にタオルの覆面を取った三人の顔はとても幼いものでした。
    ▽5月23日・光州脱出
    光州は23日も出入り禁止になっていました。市内に入る道はすべて戒厳軍が遮断していました。
    けれども全南大学の医師や学生らが「この事態を早く世界に伝えて」という思いが私たちを突き
    動かしました。
    泊まっていた旅館の食料は底をつき、宿の主人が「命の保障はできませんよ」といってローソク
    を持ってきました。宿の壁に銃弾が撃ち込まれたため「灯火管制」を敷くのだという説明でした。
    私たちはそのローソクの下で地図を広げ「光州脱出策」を練りました。そ
    して23日朝、宿の制止を振り切ってあぜ道から線路沿いに、さらにけわしい山道へと分け入り、
    戒厳軍の目を避けながら黙々と歩きました。
    時間にして約3時間ぐらいだったでしょうか、とある農家が見えてきました。庭に小型のトラッ
    クが止めてあるのが見えました。その農家に飛び込んで「ソウルまで走ってください。ともかく
    大事な仕事で急いでいます、お願いします」頼み続けました。その三拝九拝が功を奏して朝日新
    聞のソウル支局までたどり着いた時のうれしかったこと。アクセルを踏み込み続けフルスピード
    で駆けてくれたこの農家のおじさんの心意気にも感激しました。そしてすぐ東京へ送稿した原稿
    が、5月24日付の一面トップに掲載されたこの記事です。
    見出しは「怒りの光州 血と破壊と 現地に見る」「市民目の前で銃撃戦」「炊き出し、学帽カン
    パ」というものです。
    これが朝日新聞に伝えられた最初の現地レポートでした。

    6

    ▽5月27日・再びの光州
    ソウル支局長から「死ぬかもしれないが、もう一度光州に入ってくれ。家族に手紙だけは書いて
    行くように」という指示を背に、私たちがソウルから再び光州に向かったのは27日でした。2
    0数回に及ぶ戒厳軍の検問を受け、山沿いにチャーターしたタクシーで入った再びの光州はとっ
    ぷりと暮れた夜。灯火管制で街は真っ暗でした。
    光州では23日に学生らが銃を道庁に返し始め、市民も事態の収拾に動こうと弁護士や大学教授
    らが「事態収拾対策委員会」をつくり戒厳軍と交渉を始めました。しかし一部が武装解除を拒否。
    交通も通信も遮断され「陸の孤島」と化していたそんな光州で、軍は27日未明、道庁に立てこ
    もっていた学生を急襲し多数が死亡しました。そのことを知った私たちは、ともかく光州の様子
    をもう一度確認しなければと、その夜に入ったのです。
    「軍は初め、薬品入りの弾を撃ち込み、昏睡状態にして200人近くを捕まえた」と聞きました
    し、立てこもっていた学生の一部は銃を持って山中に逃げ込んだといううわさでした。
    一週間前「我われが立たねばだれが立つのか」と語り、カービン銃を片手にバリケードの中に消
    えていった長髪の学生はどうしたのだろう。そして泣きながら投石をしていた女子大生。「金大中
    釈放」を叫んでいた高校生たちは無事だろうか。そしてカンパ金集めの先頭に立っていた商店主
    や主婦らは...。光州に向かう道中、そんなことがずっと頭の中を占めておりました。
    午後9時以降は外出禁止でした。残り時間は30分。灯火管制の街を走っているのは私たちだけ
    でした。突然、十字路でバラバラと5,6人の兵士が飛び出し、ライフルを構えて「ホールド・
    アップ」と命令されました。彼らは引き金に手を掛けながら、記者証、身分証明書、パスポート
    を入念に調べながら「不用意な態度には発砲も辞さない」と念を押し
    ました。目をこらすと、ポプラ並木の根っこに、橋のたもとに、ゴミ箱の陰に、そしてビルの屋
    上にと周りは兵士だらけで、みな小銃をこちらに向けていました。
    光州は暴力的に制圧されていました。
    翌28日朝、まともな窓ガラスが一枚もない道庁に職員が出勤してきて、「久しぶりね」と抱き合
    っていましたし、戦車と兵士だらけの街には「朝売り」のおばさんの姿が久しぶりに見られ、光
    州は以前の生活に戻りつつありました。けれど、砲口を市民に向けた多くの戦車がまだ随所でに
    らみをきかせる中、光州のある知識人は27日未明の戒厳軍の攻撃を「まるで敵国の都市に対す
    る攻撃のようでした」と表現し、さらにこう言いました。
    「学生や市民の叫びを力で押さえつける。なるほど政局は一時的に小康状態を保つでしょうが、
    でもその分、学生たちの力は沈潜し、内向し、またいつか爆発するのです。今度の事件だって、
    戒厳解除、全斗煥退陣、言論と学園の自由保障という要求はなに一つ解決していなじゃありませ
    んか。貴い血だけが流れたのです」
    あの言葉がいまも耳元に鮮明に残っています。

    こうして全斗煥は80年の9月に大統領に就任し87年まで軍事独裁を続けましたが、その後、
    盧泰愚(ノ・テウ)大統領は「光州事件の性格」を「学生と市民の民主化のための努力」と規定
    し、「光州事件の解決なくして国民の和解は達成できない」とも語りました。
    つまり、光州事件は「暴徒による暴動」ではなく、全国的な民主化運動の流れの一環とされたの
    です。当然の帰結だったと思います。


    以上は28年前の取材報告でありますが、その取材の中でいくつか印象に残ったこと、その後に
    感じたことをお話します。
    1 全羅南道の人たちにとって一番刺激的だったのは、彼らと日頃仲の悪い慶尚道の兵士を送り

    7

    込んで無差別にやっつけたという話をよく聞いたことでした。黒ベレーは慶尚道出身者をた
    くさん集めてメシを与えず、酒ばかり飲ませて殺気立たせたという話もよく聞きました。真
    偽のほどは私には分かりませんが、ともかくよく聞きました。そして光州であった慶尚道出
    身者の一人は、高校生のスローガンに「金大中釈放」とあったのをとらえて、この騒乱は地
    域感情の爆発なのだと冷笑していました。けれども、そのことにこだわり、それをより強調
    し拡大して見ることは、民主化という大義のビューポイントを歪め全体を見失うことに繋が
    るのではないかという疑問が、最後まで私から消え去りませんでした。
    2 そしてこれも事実ですから報告しておかねばなりません。昨秋、湖南大学で初めて話したこ
    とですが、私たちは戒厳軍の検問を何カ所も突破して光州に入りました。いや、入ることが
    出来ました。外国のメディアといえども出入り禁止の光州にどうして入ることが出来たのか。
    当然のことながら、そういう疑問はあると思います。
    私たちはソウルから「OKタクシー」をチャターして向かったのですが、その運転手が軍隊
    を退役したばかりだったこと、そして最初の検問所で通訳のキムさんが兵隊さんと折衝した
    のですが、キムさんは慶尚南道・釜山の出身で、相手の兵隊も釜山の出身者でした。お互い
    言葉の訛りで分かったのです。それで厳しく検問するどころか、とても友好的な状況が生ま
    れ、「いいか、暗号を教えるから次からはこの暗号を言えばフリーパスさ」といって「兵隊さ
    んが一人、二人」という暗号を教えてくれたのです。青井さんは「小鳥が一匹、二匹」では
    なかったかなと、二人の間で若干の記憶違いがあるのですが、ともかく以後、20数カ所の
    検問は敬礼付きでまこと見事に通過できたことはいうまでもありません。この予期せぬ出来
    事は、私の取材における光州事件の一つの断面であったことは間違いのない事実であります。
    あのやり取りがなければ二度目の光州取材は出来なかったと思います。
    3 いまひとつ感動的に記憶していることは、20日の夜、学生たちがバスで軍隊に突っ込む時、
    捕まる覚悟だったことです。突っ込んだ学生たちは絶対逃げられなかった。しかも兵隊をひ
    き殺そうと思えばできたのに、それもしませんでした。何台もが並んでフルスピードで突っ
    込めば一挙に何人も殺せたのに、です。そこでは学生に殺意はありませんでした。それはあ
    る意味で殉教でした。自分たちの要求はこれほど切実なのだという示威行為、そのための殉
    教だったのです。27年前、そうして流された貴い血の犠牲の上に「いま」があることを、
    あらためて思います。
    4 私たちは、この光州報道を「約束違反」として外交部から呼び出しを受け、強制帰国となり
    ました。「世界史の舞台」と「世界30万キロドライブ」の取材で、事前に詳細な計画表を提出
    させられていて、それに沿った形で行く先々の市町村にお役人らが待っているという段取り
    が出来上がっていました。勝手な行動はダメだぞというわけです。私たちはそれを無視して
    光州の取材を優先させました。待ちぼうけをくらった市町村からの連絡と、朝日新聞に掲載
    された記事などからそれが分かり、厳しい尋問を受けました。私たちは目の前にとんでもな
    い出来事が発生していたら、何よりもその取材を優先させるというのがジャーナリズムの当
    たり前の風景だという主張を最後まで通しましたが、理解は得られず、「あなた方はリストに
    掲載した。もうわが国を訪問することは出来ない」ということでした。そしてリストから名
    前が消えましたという丁寧な連絡が韓国側からあったのは帰国後10年ほどたってからでし
    た。
    5 戒厳軍が固める光州へ再び行くことになった際、支局長から「死ぬかもしれないが、行
    ってくれ」 という命令があったと申しました。私たち聞く方も、あの時、さしたる抵抗も
    なく「分かりました」と返事をしています。むしろ。それは当然だろうなという気分でした。
    ジャーナリズムの最前線では当たり前という受け止め方が、あの当時はありました。いまは
    どうでしょうか。
    湾岸戦争以後の戦争報道は、ハイテクを駆使するなど戦争の形態の変化もありますが、にし
    ても大手のメディアで働くジャーナリストは前線に行かなくなりました。会社が行かせない
    という側面があります。(私たちも興奮した学生側に銃を突き付けられ、相当に危険な状況を
    迎えたり、KCIAに検束されたりしました)同時に、戦争遂行当事者が国益という名の下

    8

    に都合のよい情報を報道させようとする力が大きく作用するようになりました。そういう取
    材しかさせないという規制が敷かれるようになったのです。戦争報道の犯罪とでもいうべき
    状況を招来しているわけです。我われも原稿を東京に電話送稿したのですが、途中で何度も
    切られました。盗聴されていて都合の悪い部分になると切ってしまうのです。ですから写真
    の電送もソウルから米国のAPにいったん送り、APから朝日・東京へ迂回するという手段
    をとりました。
    そして大手のメディアに代わって、いまは通信社と契約しているフリーのジャーナリストが
    危険を承知で出て行くという状況が生まれています。去年、ミャンマーで射殺されたフリー
    カメラマンの長井健司さん(50)のそうしたお一人でした。その点については、あらため
    てメディアと戦争報道というテーマでお話する機会に譲りたいと思います。


    光州事件は、朴大統領殺害事件のあと、韓国の民主化を求めて立ち上がった学生・青年たちが光
    州でついに武装し、戒厳軍と正面からぶつかった事件でした。韓国建国後、李承晩政権を倒し、
    朴政権をも再三揺さぶってきたデモ史上・民主化闘争史上初めてのことであり、衝撃的な出来事
    でした。権力側もこれまでの警察力にかえて、軍の精鋭を前面に投入し流血を避けようとはしま
    せんでした。その意味でも光州事件は、民主化とは「力の支配」を拒否することだという根源的
    な教訓をあらためて内外に示しましたし、この事件を忘れてならない理由はそこにこそあると思
    います。「力の支配」を拒否し、もの事を民主的な手続きで決める「法の支配」を優先する考え方、
    民主主義の根幹である言論の自由を保障すること、そのことを手にするために光州の市民と学生
    らは血を流して努力したのです。私たちが取材したのは28年前のごくわずかな時間でしたが、
    それでもメディアに生きる人間として、ジャーナリズムの根幹的な心構えに通じる本当に貴い教
    訓とメッセージを頂いたというか、託されたと思いましたし、それはいまなお少しも色あせては
    おりません。
    最後に一つつけ加えさせていただきますなら、「力の支配」の絶頂を極めたのが広島・長崎への原
    子爆弾の投下でした。私は朝日新聞記者時代に二度広島で仕事をし、そして 07 年の春までの四年
    間、広島平和文化センターで平和行政にたずさわりましたが、国際法に違反する罪深い原子爆弾
    をなくすための核兵廃絶運動が発信し続けているメッセージ、つまり「人間と核兵器は共存でき
    ない」というメッセージは、まさに「力の支配」からの脱却を内外に広く問い続けているわけで
    す。
    光州と広島。
    もともと権力者とは、つねに自分に都合のよい「歴史」を残そうとするものです。そこには彼ら
    の事績はあっても、民衆の真の姿が記されることはありません。
    韓国の権力者は、言論を弾圧し、批判者を抑圧したうえで、御用の学者、御用のジャーナリスト
    らに、自らの「歴史」を書かせようとしてきました。
    広島・長崎の原爆投下もプレスコードという口封じをすることによって、国際人道法に反する核
    兵器の罪深さを隠蔽し、戦後の核開発を容易にしてしまいました。あのプレスコードがなければ、
    果たしていまの核状況があったかどうか。
    繰り返しになりますが、「力の支配」を拒否して「法の支配」をという教訓を、光州と広島、この
    二都市が発信しているのだということを申し上げて終わります。
    ご静聴ありがとうございました。

    ―以上―

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    # by kounoproclimb | 2018-05-01 18:32

    フレッド・ベッキー

    神戸ミントで行われたグラビティリサーチとパタゴニアの合同イベント 『DIRTBAG: THE LEGEND OF FRED BECKEY』の上映会に行ってきた。
    フレッド・ベッキーを初めて知ったのは、PATAGONIAのカタログに掲載されていた1枚の写真(下の写真)からだ。
    これを見ただけでDIRTBAGの意味が大体わかる。
    行く前から、大体わかっていた事だけど、イタイ映画だった。
    いや、決して80歳を超えた老人が杖を突きながら、山に登り、震える手でクライミングしている映像が見るに堪えなかったからではない。
    それどころか映像も、映画の内容も素晴らしかった。

    でも、次から次へといろんな有名クライマー(レイトン・コア、イヴォン・ショイナード、コンラッド・アンカーなど)が登場してベッキーについて語る昔話を見ながら僕は全然違うことを考えていた。

    クライミングツアーに行くと数日だけ訪れるのと1週間の旅、数か月、そしてそこに住み着いて暮らしてみるのでは全然違う風景が見えてくる。
    アメリカは自由な社会と思われているが貧乏で金のない長期滞在者に取って、決して居心地のいい場所ではない。
    僕の少ない体験では、あちこちの岩場を転々として、また同じ場所に戻ってきたときにマウンテンショップのおやじに「いつまでいるんだ。日本に帰ってまともな仕事をしろ!」といわれたし、キャンプ場のおばさんにはどこにテントを張ってもいいといわれたのにWEBの予約者が優先といわれ、あちこちに移動を余儀なくされた。まあ、追い出されなかっただけましなんだろう。或いは僕の風体がよほど貧相だったのかもしれない。
    話を戻そう。たくさんのクライマーが出て来てフレッドベッキーを称賛すればするほど、なんとも言えない居心地の悪さを感じた。彼の生きざまは真似しようとしても誰も出来ない唯一無二の存在、でも決してそんなに称賛されるほど、立派なことをしてきたわけではない。本人はそう思っていたからこそ80歳を越えるまで、一切の取材を断り続けてきたのではないだろうか?

    そんな事ばかり、考えながらぼうっと見ていた。
    終わってから彼の本を買ってみたくなったが、「そんなことより、今度一緒に登りに行こうぜ!」そんな声が聞こえたような気がした。
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    # by kounoproclimb | 2018-04-22 11:34